【NHK】【ステダン】【バイク用】ステアリングダンパーキット ODM2000 BANDIT バンディット250/400 89-94【20-14-370】


 >  > 【NHK】【ステダン】【バイク用】ステアリングダンパーキット ODM2000 BANDIT バンディット250/400 89-94【20-14-370】

張り替えタイプ 日本製シートカバー スベラーヌレッド/黒ダブルステッチ GRONDEMENT(グロンドマン) DJ-1 RR (AF19)幌・ソフトトップ Bestop Soft Top Trektop NX Black Diamond 4-Door Jeep Wrangler JK 2007-2018 ベストトップソフトトップTrektop NXブラックダイヤモンド4ドアジープラングラーJK 2007-2018中 |大 |

【NHK】【ステダン】【バイク用】ステアリングダンパーキット HD店 ODM2000 BANDIT オーバルブラッククロームタイプ バンディット250/400 89-94【20-14-370】

 小沢昭一制作の「ドキュメント日本の放浪芸(小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸)」は、1970年から1971年にかけて各地で録音され、1971年にビクターから7枚組のレコードとして発売され、同年に日本レコード大賞企画賞を受賞している。1999年にCDとして再発売されたが、現在は生産されていない。この録音は、柴田南雄先生が萬歳流しを作曲するきっかけとなったもので、後日の先生の話では、この録音をきっかけにして小沢昭一氏とも会い、数回にわたって横手に赴き直接録音をしている。
 ここでは、「萬歳流し」原点とも言える録音を紹介すると共に、横手萬歳に限らず、祝う芸としての「萬歳」の由来、態様等についての解説も合わせ紹介する。
 なお、出典はすべて「ドキュメント日本の放浪芸(小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸)」の解説書からによる。

放浪芸をひとまず訪ね終えて

BANDIT 【NHK】【ステダン】【バイク用】ステアリングダンパーキット 89-94【20-14-370】 ODM2000 バンディット250/400 BANDIT 【NHK】【ステダン】【バイク用】ステアリングダンパーキット

 レコード会社の人が私に会いたいと云う。いよいよ今流行りの加賀色歌手の仲間入りかと思ったら、歌ではなくて、何かあんたの好きな、例えば舞台でやったひとり芝居の如きものをレコードに入れないか、という話。
 ありがたいことだが、レコードとはコリヤ大変、と、とっさにおことわりの腹をきめた。
 私は古レコードを少しばかり集めていて、物故の芸人をそれで偲ぶのを楽しみの一つにしているので、レコードときくと、私の頭にはすぐSPの針音ザァザァの古レコードが想いうかぶ。だから、(あたしの芸なんて、古レコードになるまで繰り返し聴かれることに堪え得る様なものかいな。いっペんこっきりの、舞台なりテレビなればこそ、やっとこさっとこ薄氷を踏む思いで実はやってることを、繰り返しじっくり聴かれたんでは冷汗もいいとこだ。) と、まず尻ごみしてしまう。いやなに、映画などでも、繰り返し上映されて、あげくの果てに何年か経つとテレビにまたお日呂兄得するのだから、別にレコードだけを特別視することはないのかも知れないのだけれど、古レコード愛好家としては、ついレコードというものを消耗品と考えられず、むしろ保存品と思う固定観念に私はしばられている様だ。
 しかしそこで、そう云ってレコード吹込の話を断るのも、また照れくさいので 225/45R18 95W HIFLY ハイフライ HF805 エイチエフ ハチマルゴ WEDS LEONIS SK ウェッズ レオニスSK サマータイヤホイール4本セット、イタチの最後っ屁よろしく、逃げの煙幕、実現不可能なプランでも云っておけば、相手は、それで引下るだろうと、 「それより、例えば、日本中の大道芸、門付芸のたぐいを、私がそっくりドブさらいして集めて廻る様なレコード。時間も金もかかるだろうが、森進一氏、藤圭子嬢で儲かった分をこっちへ廻してくれるなら、彼等や私達の御先祖しらべ - これは前々から気になって、少しはやり始めてもいることだし、これならやらしてもらいたい」
 などと、いらぬ冗談をまぜながら、どうせOKのとれる話ではないと思うから、大風呂敷をひろげて、で、これでもう相手は、「なるほど、それは面白いですねェ、そのうち、また改めてお願いにあがhソましょう」かなんかで、このレコードの話はオジャン、とまあ大体そうゆう見当でいたら、案の丈、「おもしろいですねェ、いずれ改めまして」 でお帰りになった。しめしめ、これでまあ、そうブッキラボウな断り方ではなかったわい、と、それっきり、この話忘れていたら、しばらくして、 「このあいだの、あなたのはなしでOKです。早速はじめて下さい」
 ということなので、私はビックリしてしまった。
 もうこうなったら、男子の一言、やるしかないのである。しかし、生来のナマケモノ。今まで、ロケや地方公演であちこち廻った折々に、多少は録音して集めておいたテープをもとに、必要なものを、少し加えて録音し、さらにNHKのライブラリーなどにも頼んで利用させてもらって、足りないところを補えば…・ぐらいに考えて、男子の一言をカルウクすませようと思ったが、
 イヤ待てしばし。
 もともと、自分で、はしからじっくり探訪したいと、かねてより思っていたこと、この際更めて、万難を排しても、みずからすべてをやるべきだと反省し、思い立ったが吉日と、引きうけていた映画も監督さんに三拝九拝しておろさせてもらい、ただちに旅に出たのが昨年のはじめだったとは、結局、プロデューサーが上手。そして当初の、半年の約束がこんどは私の欲で一年になり、その一年を越えても続けさせてくれたという、いまどきこんなオットリしたプロデューサー、いやレコード会社というのも、まああるまいと思う様な結果に遂にはなったのである。いろいろ大変だったが、やりたいことを好き勝手にやらせてくれた〝優雅な商法″ にいまや正直私は感謝するのである。

 つまりは、この探訪、動機はともあれ全く自分自身のためにやりたかったことである。私も俳優の業を始めて二〇年、芸能の特質を放浪遊行の諸芸に探り、日本の芸能者の出身の土壌を確認したかったのは、もうあと二〇年ほど、続けられれば続けるであろう俳優の仕事に、一種のよりどころが欲しかったという、全く個人的な事情が私にあったのである。だから、そのための費用は、ゼイムショ的に云えば、私の営業の〝必要経費″だから、ミゼニを切らずばなるまいに、レコード会社におんぷしてやれたというのだから、これはやっぱり感謝なのである。
 しかも、それならば本来ならひそかに自らの〝乞食袋″に入れておいて、ひとりでじっと温めて、もしかしたら仕事の滋養分とするか、或いは宝の持ち腐れにするか、いずれにしても自分勝手に好きな集め方をしておけばよいものを、レコードとして世に出す以上は、多くのひとさまに聴いて頂くものとして収集整理しなければならない、という任務も生じたわけであるのに、それは終始忘れて、私好みのとりあげ方、並べ方になったことを、どうかお許し願いたいと思う。従って、「祝う芸」から「流す芸」までの分類も、私の気分のまにまにだし、これだけ多くの芸能を集めてお聴かせする時に 、ふつうやらなければならない、体系的な区分けや、それにともなう解説、詞書の作製など、すべて私には出来ないこととして、やっていないことも、お見逃しいただきたいのである。
 さて、ひとまず訪ね終えての感想は、余りにも沢山の材料をかかえこんで、未だ頭の中で未整理であるが、おしなべて、ひとことでいえば、この種の芸能の、断末魔に立ちあったという様な実感のみが残った。わずかの例を除いて、殆んどがもう残骸であった。しかし、その残骸にでも接する事の出来たことを私は幸せに思う。もうあと何年かで、それも完全に風化して消滅するであろう。残るとしても、それは 「保存」 された標本で、生きた放浪芸ではあるまい。
いずれにしても、少くとも中世以来の伝統がいま、消えたのである。 それもこれも、明らかに世の中のくらしの変化ゆえである。そして世の中のくらしに密着していた芸能であったからこそ、そのまま一緒にのたれ死するのであろう。生きながらえて人々のくらしの外で余命を保つことを、それは拒一台してるかの様にも思える。芸能とは、本来そういうものなのかも知れない。
 実際には、収録した演者の多くが、明治生れの高齢者であった。お会い出来て間もなく、他界された方もいるし、お目にかかる約束はしてあったのに、亡くなられてお会い出来なかった方もある。まさしく最後のチャンスであった。
 そしていま、芸能実演者のはしくれとしての私は、〝古き良き時代″ の風物誌として、放浪漂泊の芸を懐古追慕するよりも、放浪仙云臨終の立会人として、あるなにか -責任といった様なものを負わされたような気がしてならない。
それがどうゆうものか、また、どうやってそれを果たしたらいいのか、具体的にはまだ何も見当がつかないけれども、とにかく、実演者としての責任であることだけは確かな様である。
 それはさておいて、私が突如訪ねて、こころよく芸能を演ってみせて下さった沢山の方々に改めてここで心から御礼を申しあげたい。またそのために、色々と力を貸し、教示を与えて下さった諸先生諸先輩、各地方各町各村の多勢の方々の御親切に、ただただ深く感謝の気持をあらわしたいと思う。そして、私の影になり日向になって助けてくれた、ビクターの市川氏、わが劇団の小川氏よ、ほんとうにありがとう。
 みの虫の居を定めたり風の中

 いや"屈を定める"なんて、放浪芸には禁句か

 みの虫の居は定まらず風の中

▲ ページトップへ

放浪の芸能

郡司正勝

1

 野末に光る風、照る日曇る日、水辺を捗り、山坂を越えて、漂泊の芸能人たちは、平安朝の‥傀儡子の昔からつい先ごろまで、永い旅をつづけてきた。
 古来、町や村の人々は、待ちどおしく彼らを喜び迎え、あるときは惧れ、あるときは軽侮して、これを送った。それは民俗学でいうハレの目に訪ずれる神に従ってくる末社の神々の零落した仮りの姿でもあった。
 彼らがおこなう芸能が、予祝としての呪力をわれわれに与え、明日への生きる今日の喜びとなり、深い郷愁を残してきたことは、都市に定着した舞台芸術とは、また次元のちがう性質のものであったことを意味する。それらの芸能は、表現芸術以前の初原的な演劇力そのものともいうべきものであった。

 しかも、彼らの芸は、劇場という檜舞台を最後まで拒否する。舞台は、民家の庭先であり、大道であり、河原であり、徽であった。その彼らの槍舞台台を、いまや文化と称する現象が奪ってしまった。新幹線が走り、高速道路が出現し、大道は人間のゆく道でなくなり、人間は陸橋を登り降りしなくてはならなくなった。彼らはその芸とともにその舞台を失ない、生きてゆかれなくなったのはの上の青空さえももたなくなってしまった。‥彼らが呼吸できなくなったことばいうまでもない。
 彼らはもはや漂泊の神々ではない。その芸は 【USA在庫あり】 レジーナ Regina チェーン/スプロケットキット 525ZRD/15T/45T 07年-13年 SV650A 1230-1127 HD店、人目につかぬ水辺や山畑に、あるいは巷間の小路に逼塞して、いまや最後の息を引きとろうとしている。
 巡ってくるはずの芸能が、やってこなくなって久しい。業を煮やした小沢昭一は、職を投げうって、こんどはこちらから全国を馳けめぐらなければならなかった。こうしてここに収赫された巷間芸能のかずかずのうちには、その芸能の命脈の最後のどたん揚に立ちあったものも多いはずである。
 そのたびごとに、芸能人としての小沢昭一は、これらの芸能のすべてを、自分の身体に注ぎこみたい、承け継ぎたいと想ったに相違ない。いや、もうすでに 【イベント開催中!】 ジーピーアール GPR GP EVOLUTION TITAN 【GPエボリューションチタン】 (HONDA CROSSRUNNER 800 VFR 800 X 2015/16 SLIP ON EXHAUST MUFFLER) スリップオンマフラー、着々とみずからそのものに変身しつつあるのかも知れない。
 いずれにしても、すでに往時の生き生きとした面影はうすれているにしろ、

【NHK】【ステダン】【バイク用】ステアリングダンパーキット ODM2000 BANDIT バンディット250/400 89-94【20-14-370】
WEALL ウィオール エンジンカバー ALU TOP COVER FLAT TYPE:MAKATO!DIXCEL/ディクセル ブレーキディスクローター HD フロント用 ホンダ THAT'S ザッツ 年式02/03~ 型式JD1 JD2 HD331 0422S NA.グロンドマン バイク シートカバー ホンダ HONDA カーボンシルバー/黒ダブルステッチ 張替 ジュリオ[AF52],【USA在庫あり】 マグナム MAGNUM ブレーキライン テスター 3808-0016 HD店

【NHK】【ステダン】【バイク用】ステアリングダンパーキット ODM2000 BANDIT バンディット250/400 89-94【20-14-370】

、小沢昭一の異常な執心と情熱をもって、貴重な芸脈の地下水の音を聞くことができることは嬉しい。

2

 ここに陽のあたる日本演劇史に脱落した、芸術になってやらぬ芸能の系譜がある。その演劇史の盲点に、姿を消してゆく最後の実証をつきつけたのが、これらの漂泊の芸能の実体である。
 ここに集められた芸の性質を仮に分類してみると、
 (A)季節に制約されるものと、されぬもの。
 (B)道を流し、あるいは戸別訪問するものと、一定のあるいは特定の場を必要とするもの。
 (C)芸だけを売るものと、芸を本職の余興もしくは広告とするもの。
とすることができる。
 むろん変化して、AとBと共通するものがあり、CがAもBも勤める場合もある。つまり同一の根が、時と場合により、姿を変えて出現し、なかにはいずれとも分けられぬものもでてくる。                       
 時代的にみれば、これらのうちで、もっとも古く、由緒を辿れるのが、祝い人の祝福芸である。「猿曳き」(猿飼・猿舞わし)と「万歳」が、平安朝もしくはそれ以前の影を曳いている。おそらく猿舞わしは、散楽とともに奈良朝期に中国系から伝えられたものであろう。室町時代には、厩(うまや)祭の祈頑として、さかんにやってきたもので、狂言の「靫猿(うつぼざる)」にも、その猿歌が残っている。馬屋の祈祷は、猿は、馬の医者といった伝えが、中国以来あったようで、おそらく江戸の初期まで、大名の屋敷を馬の厄病除けに廻ってきたものである。それは大道の芸ともなり、さらに猿芝居と展開する。万歳は、古代よりの祝言人(ほがいびと)の伝統で、年
頭に祝言を述べてくるものであるが、鎌倉期より「千秋(せんず)万歳」と呼ばれ、正月の子の日に、仙人の恰好して、小松をもって、さまぎまの祝言を述べたという。
鼓打ちがともなうのも古い形で、禁中にきた京都近郊のものは、舞人と謡手と鼓打の三人であった。江戸期に入ってから、将軍家はじめ、各地の大名、さらに町家にくるようになり、御殿舞と門付芸とを区別したようである。太夫と才蔵との形が足ったのも江戸期であろう。今日の「漫才」は、滑稽問答の部分が、現代化して展開したのである。

 江戸時代にあらわれる「大黒舞」「お福さん」「狐舞」など、江戸の庶民に迎えられた、これらの祝福芸の亜流であった。なかには仮面をかぶってくるものもあった。また人形をもって祝福にやってくるものでは 【ノブレッセ】30系 プリウス 左右4本出し/オールステン/2WD [テールタイプ]タイプT [リアバンパー仕様]標準、古代の傀儡子の流れをうけついできた「夷(えびす)まわし」がある。「箱まわし」ともいい、三番叟の人形をまわし、心への伽を人形にかけ、あるいは和人形をもち、豊漁の予祝をする。また駒形の人形をもってくる「春駒」は、平安朝の禁廷の「白馬節会(あおうまのせちえ)」の面影をのこすもので、春陽を迎える予祝であった。なお養蚕の予祝や馬の産地に因んで土着して「駒踊り」になった南部などの例もある。「鳥追い」「春田打」などは、田畑の豊作の予祝であった。もう絶滅していたかと思っていた大晦日にやってくる「元日を起すやうなり節季候」といわれた「節季候(せきぞろ)」も残っていた。節分の夜にきた「厄払い」も収めることができた。厄払いとおなじ系統で、願人坊主が、代願に裸参りの恰好でやってきた「すたすた坊主」の面影も「すったら坊主」に忍ぶことができる。江戸時代に天狗の面をつけて、お札を蒔いてやってきた「まかしょ」(蒔きなさいの意)もかろうじて、その姿を止めた。
 越後月潟村の「角兵衛獅子」は、長唄の曲にもなっていて名高いが、これは太神楽の悪魔払いの獅子と東北地方の「しし踊」とが一緒になったもので、いまは、村の中学生などが保存会の名で伝承している。「太神楽」は、桑名の太夫村からでてくる伎楽系の.神楽舞曲で、江戸時代には花魁の道中をも取り入れ、女形の獅子として、甲府その他にひろく残されている。江戸の①小仙などの太神楽も、この曲芸的芸風を伝えたものである。太神楽は伊勢参宮する代りに、町々村々を訪ずれて神楽をあげる意の代神楽が元で、願人坊主の代願とおなじである。
 おなじ大道芸でも、こうした門付芸でなく、「流し」といわれ通りすぎてゆき、ときには立ち止まり、招かれて芸をするものがある。「新内流し」や「声色屋」は、主として花街を流して芸のみを売ってくるものであるが、いかにも江戸情緒を残したもので、新内流しは、遊女に心中がでるというので吉原では禁止されたのだという。声色屋はかぶき役者の声色を真似るもので、もとは劇場表で、木戸芸者といわれる呼び込みの男どもがやったのが、次第に隅田川などで、舟を仕立て、「蔭芝居」といって夏の納涼風物にもなった。明治以後の演歌師は、これらの音曲の流しの系譜に入るものであろう。

▲ ページトップへ

3

 おなじ「流し」 の芸でも、飴屋となれば、飴を売るための余興となるので、系統がちがう。江戸時代ならば、餅屋・宙薬の振れ売りなどとともに香具師の配下に人るべきものであったのは、飴は薬の一種であったからである。「土平飴」「あんけらこんけら糖」「念仏飴」「ガラン糖」「お駒飴」「お万が飴」など、それぞれ扮装をこらし、念仏踊りや唐人踊りあるいは鎌倉節で、踊りと歌をサービスしながらやってきたものであった。また団子売や餅屋は曲搗きをみせた。
 こうした流しでなく、盛り場などに一定の場所を占めた香具師の芸に、歯磨や反魂丹売の居合抜きや蟇の油や行者の薬売りの口上などのことばの芸がある。明治以前の湯島境内の小芝居は、香貝見世の人集せの芸として子供手踊を演ずるという名目で寺社奉行の許可をえたものである。「紙芝居」が景物に飴を売るのも、この伝統にほかならない。

 「絵解き」と称する地獄極楽の懸物や絵巻を前にして、絵解きをするものは、中世からあらわれて、多くは熊野比丘尼などであった。これらが盛り場や寺社の境内に出るためには、江戸時代は、寺社奉行の管轄のもとで、非人頭の支配を受けなければならなかった。
 これらの元は、大寺院の、当麻寺の曼荼羅絵解や道成寺絵巻の絵解きあるいは、苅萱、小栗判官などの一種の節付け説経の系統から落ちていったもので、説経節は BERINGER AERONALディスク ステン R クローム HONDA 310φ 《ベルリンガー H18R-DICH》、こうして、語り物の浄瑠璃の先駆をなしたのである。「覗きからくり」の云い立ては、まさしくこの絵解きの系譜から生れ、「紙芝居」にうけつがれ、動く写真絵の説明師となった「活動弁士」も、西洋風の演舌と結びついた松解きの流れであったということができる。

4

 小世から『平家物語』を琵琶で伴奏して旅して歩いた法師、すなわち琵琶法師がいた。語り物は、古代から記憶のいい、目明きの見えない世界と交通することのできる盲人の職掌であった。東北の「いたこ」(巫女)にも盲目が多い。神や仏、もしくは死霊・生霊と話ができる能力をもった人たちである。あの世のこと、前世のこと後世のことを語ることができるのは彼らであった。琵琶の絃鳴は、よく異国の情緒をもって神や仏の世界に通わせた。九州地方に残る荒神琵琶・盲僧琵琶は、荒神払いや般若心経の伴奏に、インド以来の古代の旋律を伝えながら、さらに民衆のなかに、「渡辺綱」だの「餅合戦」だのの滑稽物語を余興として浸透させていった。肥後琵琶の旋律を聞いていると、それはすぐに、新潟の御前を想い出させる。
 あの盲僧たちの笹琵琶が、そのまま盲女(ごぜ)たちの三味線に代っても、ちっとも違った感じを与えない。それほど越後の石女と九州の肥後琵琶とは元はおなじ流れだったのである。
 浄瑠璃が、もと説経節系から展開したであろうことは、浄瑠璃光菩薩(薬師如来の別名)の霊験譚を語った浄瑠璃の祖が『浄瑠璃姫物語』(浄瑠璃十二段)であったことをみてもわかる。香具師の守護仏である薬師如来の信仰譚から、いろいろな芸能が花開いたのである。その浄瑠璃を、盲僧・盲女が、自分の盲目を目前の実証として語り歩いたのが、「平曲」となり「浄瑠璃」となっていった。 もう一つ、これに加ったのが、修験道の祭文の口唱芸である。いたこの「おしら祭文」の「栴檀栗毛」のストーリイには、中国の道教説話が入っている。

 道教と修験道となんらかの関係があるにちがいない。すでに祭文とは語り物である。それが歌謡に近くなったものが「歌祭文」で、語り手の系統がちがっても説経節とまったく別物ではない。読みはじめのきまり文句がちがうぐらいなものとみてよかろう。「デロレン祭文」「阿呆陀羅経」も、前者は法螺貝と金杖の山伏(修験道)の楽器を用い、後者は木魚を伴奏にするちがいがある。チョボクレも阿呆陀羅経の系統の願人坊主だちの口唱芸であり、祭文は、より浄瑠璃にちかい語り物で、やがて「浮かれ節」となり「浪花節」となる。いっぽうでは義太夫節として芸術化してゆく方向とは別に、それらの道を拒否しつづけてきた説経節が、祭文と合流しながら浪仙化節になり、つねに庶民の側に止どまったのである。
 これらが歌謡化したものは、「唄祭文」から、「くどき」や「音頭」となって、「鈴木主水」や「八百屋お七」を生み、死者供養の盆踊に入って「八木節」「江州音頭」「願人踊」など、全国にひろく残ったのは、この展開だといっていい。
 とにかく、絶対昇華しないが、お互が、アミーバーのごとく浸蝕しながら、合流し、変化して、つねに大衆とともに生きてゆこうとする芸能があったことは否定できない。こうした芸脈が、文献や歴史では辿り難いのは、庶民には生活があって歴史がないのとおなじことなのである。
 日本演劇史の盲点が、このシリーズで感じとられるなら、望外な喜びとしなければなるまい。

▲ ページトップへ

 秋田(横手)万歳(秋田)

  万歳はもと三河の国より常陸へ来て住てけるが、慶長年間この地へ移り来れりと申すなり。針生清太夫とは代々の通り名なり。烏帽子に松竹鶴亀を染たる水干着て、才蔵はそれらの類より、口利たるもの択び出して伴ふ。
 大形の広袖厚綿入を着て、浅黄の頭巾也。城へ登りて祝の詞を申し、それより士家の町々を回る。其詞十二段…
                            『秋田風俗間状答』 文化11

といった故事だが、番楽の万歳は常陸経由より以前に、秋田に移入されていたと見てよい。

 「鶴は千年、亀は万劫(ごう)鶴は千年の御祝いは、三北の根ゼリを食うがうえ、亀は万劫経ることは、九穴 (けつ) の貝の仕術也。千代徳若に御万歳とは、君も栄えておわします。ある京の新玉の年取る初めのあしたには、水も清めて栄えます。
             鳥海村百宅万歳

 田ほめのコッケイ問答のあと、家建て、柱建てが続く。徳若は常若(とこわか)だから、春ごとに人々がよみがえる古い日本の常若思想が、鳥海村に残っていたわけだ。

 「常若に御万歳とや、ありがたかりけり。しんりきのあいきょうありけり。新玉の年取り始めのあしたには、水を迎えて木の梅咲いて…
             阿仁町荒瀬万歳

 いずれも番楽に付いたもので、ほかに川本郡藤町町志茂若豊年踊り (ササラ)、鹿角郡十和
田町川原大神楽 (シシ舞い)にもあるし、かつては相当数県内に伝わっていたと見てよい。秋
田市の万歳は、特定の町の人たちが

「毎年正月万歳卜称シ、太夫才蔵市中郡村幾組トナリテ、祝詞巡回。田ノ神猿回シ等モ、同町(花立町)ニ株式家」
(秋田沿革史大成)

で、明治二十三年ころ六十人もいた。
 秋田万歳は、表六番が家建て・経文・神力・峰入り・お国・双六で、裏六番が扇・お江戸・門跡・吉原・桜・名寄の計十二番。

横手万歳
 昭和二十七年十二月十五日のことだ。横手市に万歳芸能保存会が発足した。「万歳というと物乞いを連想させる。正統な郷土万歳を保存していこう」というねらいだった。(略)
           井上隆明「秋田の芸能」より

横手の秋田萬歳

 練り込んだコンビらしく、二人の言葉のデュエットが楽しい。太夫が詞を唱える間に才蔵が所謂”づくし”をアドリブの様にはさんで行き、

【NHK】【ステダン】【バイク用】ステアリングダンパーキット ODM2000 BANDIT バンディット250/400 89-94【20-14-370】

、ところどころで合流する間尺が実にいい。素晴らしい現業者だ。芸人としての腕も一級と見た。


▲ ページトップへ

収録された他の地方の萬歳

祝う芸「萬歳さまざま」

尾張(知多)万歳(愛知)
「御殿万歳」
「門付の万歳」
三河(西尾)万歳(愛知)
ナレーション(正月万歳の代名詞)
「御殿万歳」
会津万歳(福島)
ナレーション(東北地方の万歳)
万歳師インタビュー
「年始万歳」
秋田(横手)万歳(秋田)
ナレーション(山と川のある町)
「御門万歳」
(付)ひとり万歳(秋田)
越前(野大坪)万歳(福井)
ナレーション(祝福芸としての万歳の歴史)
「お家万歳」
「寿万歳」
「木やり万歳」
加賀万歳(石川)
ナレーション(犀川の川下からでてきた万歳)
「三番堂」
「お福の嫁入」
伊予(風早)万歳(愛嬢)
ナレーション(群舞のような万歳)
「柱ぞろえ」
伊六万歳(愛知)
「御殿万歳」
万歳芝居「忠臣蔵三段目」
こうこうづくし
豊後万歳(大分)
ナレーション(滅びゆく芸能)
豊後万歳

{yahoojp} {arionchor.com}
{yahoojp}jpprem01-zenjp40-wl-zd-25296